2002年05月14日

2002年5月14日

親愛なるDavid Jensenに


自分がソフトウェア会社で働いていて、新しい形の
コミュニケーションソフトを開発している割に、
僕は自身のコミュニケーションそれ自体には非常に鈍感であったように、最近思う。

 

近頃自分の周りの人達の「他者性」が、非常に
鮮明に見えてきたんだ。むしろ今までどうして
こんなことに気づかなかったのか、当惑してしまう
くらいに、それを感じる。

他者性とは、他者が自分とは全く異質な存在である
ことを言うのだけれど、僕自身それがどういうことか、いまいちよく分かっていなかったんだろうね。

ただ最近社会やら個人やらと濃密な時間と経験を
共に経るに従って、少しずつ分かってきたような気がする。

全く異質である他者と、意思や思いを共有しあう行為
が「コミュニケーション」で、僕達は近しい存在には「深い」コミュニケーションを志向している。

けれどもこの「深い」コミュニケーションというのが曲者で、生易しいものじゃないね。

というのは、深いコミュニケーションとは、その人の
他者性、つまりは全く異質であるということ自体を、
こちらが引き受けて初めて成立するものみたいだからだね。

この異質であるということ、はとても怖いことで、
ただ単に違うということではなくって、非常に無価値
に見えたり、どろどろしていたり、目を覆いたくなる
ようなものであったりする。

けれど、深いコミュニケーションとやらは、それを一旦は解釈なしで自分の中に飲み込んでしまわなくてはならない。

こんな作業を行って初めて、僕らは他の誰かと、
「響き」を共有できるような気になるように思うんだ。(本当にそれが可能かどうか、はよくは分からない)

でも哀しいことに、僕は自分の周りの人全ての人の沼を抱えることなんてできないし、したいとも思わない。

じゃあ一体どこでコミュニケーションのラインを引き、向こう側に位置付けされた人達(けれど大切であることに変わりがない人達)とは、 どんな言葉を交わすべきなのだろう。

多くの他者へのまなざしは、どんなものであるべきなのだろう。

こんなしょうもないことばかり考えているけど、それによって誰かに少し優しくなれるのだったら、 たまにはこんな風に悩むのも悪くないかも知れない。

 

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posted by 駒崎弘樹 at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の日記(過去blog倉庫) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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